keepr’s diary(本&モノ&くらし)

ネット、読書、音楽、散歩、最近はイラストが趣味のおじさんです。趣味、商品、暮らしの疑問、感想を思いつくまま綴ります。

 【本サイトはアフェリエイト広告を利用しています】

【随筆】砂浜の記憶と西湘バイパスのこと

 

砂浜の記憶

花火や大松明の話題の中で、何度か西湘バイパスの話をした。西湘バイパスの着工が1964年、最初の区間が開通したのが1967年だから自分が小、中学生の頃だ。

 

生家は小田原の海の近くにあり、小学生時代にはよく近くの砂浜で野球もどきの遊びなどをしたものだ。今考えると走りにくい砂浜でズックが砂まみれになりながらよく遊んだなあと思う。

子どもの時の記憶だから、実際はそれほど広くなかったのかももしないが、堤防から波打ち際まで50~100メートルはあったような気がする。

そこで凧揚げをしたり、ブーメランを投げたり、堤防の上から竹ひごと紙で作った模型飛行機を飛ばしたりした。

当時の遊び場は近くの稲荷や神社の境内などもあったが、広い遊び場と言うとやはり砂浜で、単に「浜」とよんでいたような。

 

海岸には石積みかコンクリートの一応堤防が設けられており、台風の時は木枠の仕切りで閉ざされた。横線のくぼみが入ったコンクリートのスロープを下ると緩やかに傾斜した砂浜が海まで続く。

浜は灰色の砂でいつも風紋の凹凸ができている。当時下水道がなく、浜には所々にどぶの臭いがする下水の流れが海まで続いていた。花火や大松明の会場は少し離れた浜だったので、暗い砂浜のどぶをいくつか飛び越して行った。

波打ち際も遊び場だったが、父から波の引く力の強さを教えられ、身を持って味わってもいたので、子どもながら自然と注意はしていたようだ。

もちろん定番の「砂の山」も作ったが、波打ち際の少し手前の小石がゴロゴロしているところにいろいろなモノが波に洗われて漂着していたのを思い出す。死んだ魚、木の枝、プラスチックの欠片がゴミのように打上げられていて、時々なんだかわからない物体も見つけた。

 

夕方遅くまで野球などで遊んでいると、心配した母が裸で苑級の灯る堤防の上まで迎えに来たものだ。

 

あの頃の浜の風景や砂の感触は夢にもよく出てくる。自分の少年時代の原風景の一つなのだろう。

 

西湘バイパスの工事

西湘バイパスの工事は最初のオリンピックの年、1964年から始まった。ある日浜に行くと浜は立入禁止になっていて、砂浜が掘られて茶色い土がむき出しになっていた。

工事があることは知っていてがその光景を目にするのはショックだった。

 

「砂上の楼閣」

その頃、同じ町内の大南さんという文筆家が、確か「諸君」だったと思うが、西湘バイパスについて批判する「砂上の楼閣 西湘バイパス」と言うような記事を書いている。

 

当時国道1号線は慢性的な渋滞で、このバイパス計画には海辺に道路を作る案と内陸部に作る案があったらしい。用地買収の難しさもあり海辺に建設することになったが、海辺に作るにしても、現在のような盛土(一部高架)にする方法でなく、高架方式にすれば砂浜を潰さずにすんだ。一度潰した砂浜は二度と戻らない。

確かそんな内容だった。

 

それを読んで当時の自分も共感したし、現在でもそう思う。

 

その記事の中に書かれていたと思うのだが、盛土式のメリットとして、堤防として使えるということがあったようだ。

計画する側としては、防災面や将来の耐久性、総合的コストなどを考えれば、盛土方式にするという選択肢はあながち間違いではなかったとも思う。

しかし、もっと長い目で自然環境、景観などを考えれば、高架方式にして堤防は別に作るか、さらに言えばもう一つの選択肢だった内陸部が正解だったのではないか。

 

ちなみに、河野太郎氏の祖父で総理大臣候補と言われながら急逝した河野一郎建設大臣だったのがその頃の1962−1964年だった。

東名高速道路が地元の方小田原市を通らないことに憤慨した河野建設大臣小田原厚木道路の建設を命じたとの逸話は知られているが、当然、西湘バイパスの建設にも強い影響力があっただろう。

蛇足だが、河野一郎氏は辣腕、ある意味強引な政治家だったと言われているが、世襲三代目で孫の河野太郎氏のマイナ保険証などを巡る強引、独善的な政治手法は祖父の悪い側面だけを引き継いだのかもしれない。

 

開通後の浜辺

さて…西湘バイパスの1次開通が1967年だから多分3年間は浜辺に行けなかったことになる。工事が終わり海岸に立ち入れるようになった頃、自分は中学生になっていた。

堤防から大きく見渡せた海は、盛土された道路に遮られて何も見えず、海辺への入口は少なく、狭く暗い。

砂浜に出るとそれはもう元の浜ではなかった。半分は道路で潰され、残された砂浜もバイパス沿いに道路を高波から守るのだろうか、テトラポットが何列にも置かれてさらに砂浜は狭くなっていた。

 

当時不良少年のシンナー遊びが流行っていたが、テトラポットの奥は見通しが悪く、ビニール袋や避妊具などが落ちていることもあり、出入り口が限られ逃げ場のない砂浜は物騒で、自然と足が遠のいた。

 

さらに狭まった砂浜

早いものであれからもう60年近くが経った。当然だが、西湘バイパスは現在も利用されていて、一度壊された自然は人の営みの中では二度と元には戻らない。

海岸の花火大会は時々開催され、今年は6月に催されたようだが、8月のお盆の頃のあの賑わいはない。大松明はもう知っている人の方が少なくなったのではないか。

西湘バイパスだけの影響ではなく、酒匂川、相模川上流にダムが建設されて砂の堆積が減った影響とも言われているが、たまに行ってみると、盛土部分の海岸は入口を抜けた先がすぐ海になっていて、高波が来たら逃げ場がない。

河口や高架部分はまだマシのようだが、比較的観光名所になっている御幸の浜では、他所から砂を運び砂浜を維持しているようだ。

 

観光名所になっているが…

 

先日テレビの旅番組で御幸の浜あたりの海へ続くバイパスの下の通路を、海が切り取られる映えスポットとして紹介していた。Googleマップでも「海の見えるトンネル」「海への扉」など観光名所にもなっているようだ。

 

だが、むかしの広々とした海辺の砂浜や現在の少し不安な浜辺を知る自分には、何か不自然で作りものめいた不安なスポットに思えてしまう。

 

ただ、海はそんな人の営みなど知らぬげに、悠久の波を寄せては返している…

 

上から見たイメージです
f:id:keepr:20240711142720j:image

 

keepr.hatenablog.com

 

keepr.hatenablog.com

 

keepr.hatenablog.com

 

プライバシーポリシー 免責事項