keepr’s diary(本&モノ&くらし)

ネット、読書、音楽、散歩、最近はイラストが趣味のおじさんです。趣味、商品、暮らしの疑問、感想を思いつくまま綴ります。

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【コラム】石丸伸二氏はスーパーエンターティナーだ!

東京都知事選が終わったが、選挙後も色々と楽しませてくれる。

 

2位といううれしい結果の出た後なのに、開票番組のインタビューで石丸氏が質問の一つ一つに不機嫌、子供っぽい、突っかかる受け答えをした。これがXなどで「石丸構文」※と盛り上がっていた。

 

※ 「石丸構文」の定義 🤪

  • 質問に質問で返す
  • 定義を聞く
  • 冷笑する
  • 自分でめんどくさくしておいて時間かかるとキレ出す
  • BLT注文したくせに最初からえびアボカドと言ってたと主張し始める

(Xを参考)

 

(念のため。サブウェイでは品名、パンの種類、焼き方、野菜の好み、ソースの種類、トッピングなど店員さんから細かく聞かれる。)

 

特に、もともと話が回りくどい古市憲寿氏とのやり取りは小学生同士の口喧嘩のようで、まさに「石丸構文」で面白すぎる。乃木坂の山崎怜奈さんのインタビューでは真面目な小学生をいじめるサディストの大人のようである。コミュニケーション能力がないのかな?

 

とはいえ相手を選ぶようで、番組に出ていた橋本徹氏には丁寧に受け答えしている。強い人間にはしっぽを振り、同等以下と考える人には吠えるのかも知れない。

 

さすがにあれはまずいと誰かに言われたのか、翌日のテレ朝の番組では、斎藤ちはるアナや大下キャスターに少しは丁寧に答えているようだ。

 

ただ、自分の非を認めるというより質問が悪かったというような調子で、山崎さんへの回答がキツかったことに対して「女こどもに容赦をするのは優しさじゃないと思っている」とか変なことを言って、またもネットを賑わせている。

 

まあ、職場にも時々こういう唯我独尊、厚顔無比の人間はいたが、ここまでの人は珍しい。

 

「女こども」という言葉は久しぶりに聞いた。すごいな。自分は保守派だが、さすがに今どきこんな言葉は使わない。

 

どこまで考えて喋っているのか、天然なのか、病んでいるのか、それとも計算しているのか全くわからない。不思議な人物である。良くも悪くもネット社会が産んだスーパーエンターテイナーである。

 

2位にもなれず涙を流した蓮舫氏は、東国原氏のワイドショーでのコメントに過敏に反応したり、在日イスラエル大使投稿の小池都知事との写真を非難したものの2年前の写真と言われると知らぬげに削除したり、支持者が貼ったと思われる「R」マークのステッカーを剥がしてと言う声にだんまりを決め込んだり、懲りずに自分本位で過剰な「カミツキ」を続けている。

 

ただ、石丸氏に比べるとわかりやすいと言えばわかりやすい。

 

さて、石丸氏については安芸高田市長の時にネット動画で人気になっていることは知っていた。ただ、居眠りをしている議員を「恥を知れ、恥を!」と動画で晒し者にして、再生回数を稼いでいるのはどうも好きになれなかった。

 

動画は再生回数に応じて収入が入るので、バイトテロ、飲食店テロなど炎上狙いの酷い内容も多く、個人の好きずきなのだろうが、活字派の自分はどうも馴染めない。

 

立花氏やつばさを「悪ふざけ炎上系」YouTuber政治屋と言うとしたら、石丸氏は私人逮捕など「正義を名乗る系」のYouTuber政治屋なのだと思う。石丸氏の支持者はそんな「正義」に好感を持ったのだろう。

 

投票前に、自分は石丸氏が2位になった方が話としては面白いと書いた。それは蓮舫氏により強く抵抗を感じたためだった。

 

だが、結果が出てみて、小池、蓮舫氏への批判票もあったにせよ、YouTubeの切り取り動画の人気で石丸氏が165万もの票を集めた流れはある意味とても恐ろしい。

 

今後も、ポピュラリズムだけでなく情緒的で軽いネットの影響が加わるとしたら、この国の政治はどんな方向に向かうのだろうか。

 

(ところでひさしぶりにサブウェイのサンドウィッチが食べたくなった…)

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【随筆】砂浜の記憶と西湘バイパスのこと

 

砂浜の記憶

花火や大松明の話題の中で、何度か西湘バイパスの話をした。西湘バイパスの着工が1964年、最初の区間が開通したのが1967年だから自分が小、中学生の頃だ。

 

生家は小田原の海の近くにあり、小学生時代にはよく近くの砂浜で野球もどきの遊びなどをしたものだ。今考えると走りにくい砂浜でズックが砂まみれになりながらよく遊んだなあと思う。

子どもの時の記憶だから、実際はそれほど広くなかったのかももしないが、堤防から波打ち際まで50~100メートルはあったような気がする。

そこで凧揚げをしたり、ブーメランを投げたり、堤防の上から竹ひごと紙で作った模型飛行機を飛ばしたりした。

当時の遊び場は近くの稲荷や神社の境内などもあったが、広い遊び場と言うとやはり砂浜で、単に「浜」とよんでいたような。

 

海岸には石積みかコンクリートの一応堤防が設けられており、台風の時は木枠の仕切りで閉ざされた。横線のくぼみが入ったコンクリートのスロープを下ると緩やかに傾斜した砂浜が海まで続く。

浜は灰色の砂でいつも風紋の凹凸ができている。当時下水道がなく、浜には所々にどぶの臭いがする下水の流れが海まで続いていた。花火や大松明の会場は少し離れた浜だったので、暗い砂浜のどぶをいくつか飛び越して行った。

波打ち際も遊び場だったが、父から波の引く力の強さを教えられ、身を持って味わってもいたので、子どもながら自然と注意はしていたようだ。

もちろん定番の「砂の山」も作ったが、波打ち際の少し手前の小石がゴロゴロしているところにいろいろなモノが波に洗われて漂着していたのを思い出す。死んだ魚、木の枝、プラスチックの欠片がゴミのように打上げられていて、時々なんだかわからない物体も見つけた。

 

夕方遅くまで野球などで遊んでいると、心配した母が裸で苑級の灯る堤防の上まで迎えに来たものだ。

 

あの頃の浜の風景や砂の感触は夢にもよく出てくる。自分の少年時代の原風景の一つなのだろう。

 

西湘バイパスの工事

西湘バイパスの工事は最初のオリンピックの年、1964年から始まった。ある日浜に行くと浜は立入禁止になっていて、砂浜が掘られて茶色い土がむき出しになっていた。

工事があることは知っていてがその光景を目にするのはショックだった。

 

「砂上の楼閣」

その頃、同じ町内の大南さんという文筆家が、確か「諸君」だったと思うが、西湘バイパスについて批判する「砂上の楼閣 西湘バイパス」と言うような記事を書いている。

 

当時国道1号線は慢性的な渋滞で、このバイパス計画には海辺に道路を作る案と内陸部に作る案があったらしい。用地買収の難しさもあり海辺に建設することになったが、海辺に作るにしても、現在のような盛土(一部高架)にする方法でなく、高架方式にすれば砂浜を潰さずにすんだ。一度潰した砂浜は二度と戻らない。

確かそんな内容だった。

 

それを読んで当時の自分も共感したし、現在でもそう思う。

 

その記事の中に書かれていたと思うのだが、盛土式のメリットとして、堤防として使えるということがあったようだ。

計画する側としては、防災面や将来の耐久性、総合的コストなどを考えれば、盛土方式にするという選択肢はあながち間違いではなかったとも思う。

しかし、もっと長い目で自然環境、景観などを考えれば、高架方式にして堤防は別に作るか、さらに言えばもう一つの選択肢だった内陸部が正解だったのではないか。

 

ちなみに、河野太郎氏の祖父で総理大臣候補と言われながら急逝した河野一郎建設大臣だったのがその頃の1962−1964年だった。

東名高速道路が地元の方小田原市を通らないことに憤慨した河野建設大臣小田原厚木道路の建設を命じたとの逸話は知られているが、当然、西湘バイパスの建設にも強い影響力があっただろう。

蛇足だが、河野一郎氏は辣腕、ある意味強引な政治家だったと言われているが、世襲三代目で孫の河野太郎氏のマイナ保険証などを巡る強引、独善的な政治手法は祖父の悪い側面だけを引き継いだのかもしれない。

 

開通後の浜辺

さて…西湘バイパスの1次開通が1967年だから多分3年間は浜辺に行けなかったことになる。工事が終わり海岸に立ち入れるようになった頃、自分は中学生になっていた。

堤防から大きく見渡せた海は、盛土された道路に遮られて何も見えず、海辺への入口は少なく、狭く暗い。

砂浜に出るとそれはもう元の浜ではなかった。半分は道路で潰され、残された砂浜もバイパス沿いに道路を高波から守るのだろうか、テトラポットが何列にも置かれてさらに砂浜は狭くなっていた。

 

当時不良少年のシンナー遊びが流行っていたが、テトラポットの奥は見通しが悪く、ビニール袋や避妊具などが落ちていることもあり、出入り口が限られ逃げ場のない砂浜は物騒で、自然と足が遠のいた。

 

さらに狭まった砂浜

早いものであれからもう60年近くが経った。当然だが、西湘バイパスは現在も利用されていて、一度壊された自然は人の営みの中では二度と元には戻らない。

海岸の花火大会は時々開催され、今年は6月に催されたようだが、8月のお盆の頃のあの賑わいはない。大松明はもう知っている人の方が少なくなったのではないか。

西湘バイパスだけの影響ではなく、酒匂川、相模川上流にダムが建設されて砂の堆積が減った影響とも言われているが、たまに行ってみると、盛土部分の海岸は入口を抜けた先がすぐ海になっていて、高波が来たら逃げ場がない。

河口や高架部分はまだマシのようだが、比較的観光名所になっている御幸の浜では、他所から砂を運び砂浜を維持しているようだ。

 

観光名所になっているが…

 

先日テレビの旅番組で御幸の浜あたりの海へ続くバイパスの下の通路を、海が切り取られる映えスポットとして紹介していた。Googleマップでも「海の見えるトンネル」「海への扉」など観光名所にもなっているようだ。

 

だが、むかしの広々とした海辺の砂浜や現在の少し不安な浜辺を知る自分には、何か不自然で作りものめいた不安なスポットに思えてしまう。

 

ただ、海はそんな人の営みなど知らぬげに、悠久の波を寄せては返している…

 

上から見たイメージです
f:id:keepr:20240711142720j:image

 

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【コラム】御幸の浜の「大松明(おおたいまつ)と線香まつり」の記憶

小田原市ー小田原デジタルアーカイブー「大松明・線香まつり」より引用

 

先日の記事で子どもの頃の海辺の花火大会のことを書いたが、8月の花火大会と同じ時期に、砂浜に大きな松明(たいまつ)を立てて火を付ける「大松明」(おおたいまつ)と呼ばれる行事があり、夏の暗い砂浜に燃え上がる松明の炎がうっすらと思い浮かぶ。あれはどんな行事だったのだろうか。


松明が何本も立っていたような気もするし、見物に来た人も何かを燃やしていたような記憶もある。花火大会よりは少ないもののかなりの人が見に来ていて、地域の夏の風物詩の一つだった。


気になったので検索すると、いくつかヒットしたので参考にさせていただいた。

 

大松明と線香まつり:小田原デジタルアーカイブ「小田原写真館」 | 小田原市

大松明・線香まつり:小田原デジタルアーカイブ「小田原写真館」 | 小田原市

 

8/12 夕暮れの城址公園~御幸の浜 - 小田原の端々

 

懐かしき大松明: 鴇約苑

 

読ませていただいた内容をまとめると、あの行事は小田原市御幸の浜で行なわれていた「大松明・線香まつり」とされていて、現在は行われていない。終わった時期ははっきりしないが、一旦終了した後、数年間だけ復活していたようだ。そう言えばそんな記憶もある。


「小田原デジタルアーカイブ」には1991年と1992年の写真が掲載されていたが、それらがは継続的に行われていた頃のものなのか、数年復活した頃のものなのかはわからなかった。

何となくだが、西湘バイパスができた1967年以降、砂浜は狭くなったものの花火大会は海上花火大会として続いたが、火が大きく危険な大松明の行事は終わってしまったような気がする。

ただ、小田原市のデジタルミュージアムの歴史年表には、1976年に大松明線香まつり保存会が発足したと書かれているので、その頃までは開催されていたとも思える。

これ以上は市役所や郷土史家の方に聞いてみないと分からないだろう。

 

さて、大松明は高さ15メートルだったようで思っていたより高い。写真に写っている人と比べると相当な高さであることがわかる。


大松明は海で亡くなった人や漁師が獲った魚介類を供養する行事で、毎年8月12日(旧盆の前日)に行われていたようだ。確かにそんな雰囲気だったなあ。

そう言えば、子どもの頃、近所の友だちと大松明を見に行くと言うと両親が少し変な顔をしていたような気がする。

海の遭難者の供養と言うと何となく霊とか怖いものがあるし、今思えば子どもがお祭り気分で見物するものではなかったかもしれない。


写真では大松明は1つのようだが、小さいのが複数あったような気もする。写真でもいくつかの火が見えているが松明なのか焚き上げの炎なのか定かではない。

小田原デジタルアーカイブでは「大松明・線香まつり」とタイトルが就いており、浜に線香を立てる写真もあった。訪れた人が何かを燃やしていた記憶があったが、あれはどうやら線香を立てていたようだ。確かに供養の行事である。


大松明の中で線香でなく何かを燃やしたような気がしていたが、あれはこの行事とは別に、お盆の牛や馬を砂浜で燃やす風習があり、その時の記憶だったような気がする。


どうも記憶の中で色々と混じりあっているようだ。失われた記憶を求めて…でもないか😅

 

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