あらすじ
東京で電車事故にあった著者が、静養のため湯治している城の崎の町でいくつかの生き物の死に出会い、自分の境遇と重ね合わせて、生と死が近いものだと実感する。
目次
なし
感想
志賀直哉は冒頭に掲げた作品集と「暗夜行路」くらいしか読んでいないが、作品はとても中身の濃い短編揃いというイメージがある。
(ウィキぺディァで調べて志賀が白樺派ということに気づかされたが、武者小路実篤と同じ派に分類されているのが不思議だ。)
この作品は志賀の作品の中でも著名で、確か教科書にも載っていたのではと思う。
作品中、ネズミが殺される場面、イモリを殺してしまう場面が特に心に残る。
蠑螈にとっては全く不意な死であった。自分は暫くそこに跼んでいた。蠑螈と自分だけになったような心持がして蠑螈の身に自分がなってその心持を感じた。可哀想に想うと同時に、生き物の淋しさを一緒に感じた。自分は偶然に死ななかった。蠑螈は偶然に死んだ。(作品より引用。以下同じ)
こうした出来事に出会うと心がザラつき不快になるが、街を歩いていても、些細だが不快な出来事に遭遇することはよくある。反対に気持ちがよくなる、ワクワクするような出来事もあり、まあ、それは半々だと思えばいいのだろうか。
本作には、このほか最初の方で蜂が死ぬ記述もあるのだがそちらは自然死。ネズミの話は他人の不快な行為、ヤモリの方は自分の過失で死なせてしまう。どちらも嫌だがヤモリの方がより不快で、後悔もあり後に残りそうな気がする。
志賀は電車事故に遭っても偶然軽い事故で済んだ自分と生き物の死を重ね合わせ、命のもろさ、生きていることの偶然性を実感する。
そして死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。しかし実際喜びの感じは湧き上っては来なかった。
自分は、特に、ネズミがどうやっても死は免れないのにジタバタして生きようとする姿に自身を重ね合わせてしまい、嫌だなと思う。だが、生き物は生存本能があるので、みんなそうなのだろう、自分もそうしてジタバタしてしまうのだろうとも思う。
自分は鼠の最期を見る気がしなかった。鼠が殺されまいと、死ぬに極った運命を担いながら、全力を尽して逃げ回っている様子が妙に頭についた。自分は淋しい嫌な気持になった。あれが本統なのだと思った。
ジタバタ悪あがきをするのは生き物の宿命なのだろう。死ぬと決まっているのに生きていること自体がジタバタかもしれないが…
(もしコロナウィルスが結局は全世界が死亡する病だとしたら、今の私たちが行っているいろいろな対策も単なるジタバタかもしれない、とふと思った。)
そうした生存本能と苦痛の問題は多分別で、病気で死期が近い人が苦痛を伴う延命治療を望まず、緩和ケアを望むのは生存本能より安らかな死を選ぶことができる人間の特権かもしれない。
そんなことも考えた。
志賀直哉の作品は短編が多く、100年前の作品としては文章、文体の違和感が少ないので、一度読んでみることをおすすめしたい。
この作品をおすすめする人
- 生と死について考えている人
- 中の濃い短編を読みたい人
- 著明な文学作品を読みたい人
- くどい文章が嫌いな人
- 志賀直哉の作品を読みたい人
著者について
志賀 直哉(しが なおや、1883年(明治16年)2月20日 - 1971年(昭和46年)10月21日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家。白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に「暗夜行路」「和解」「小僧の神様」「城の崎にて」など。宮城県石巻生まれ、東京府育ち。
主な作品(代表作)
-
「網走まで」(1910年)
- 「大津順吉」(1912年)
- 「清兵衛と瓢箪」(1913年)
- 「城の崎にて」(1917年)
- 「赤西蠣太」(1917年)
- 「和解」(1917年)
- 「小僧の神様」(1920年)
- 「暗夜行路」(1921–37年)
- 「灰色の月」(1946年)
著者・主な作品 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』