ゴールデンウィークが目前で気候も初夏のようだ。ついこの間まで桜の開花を待ちわびたのが昔のことのようで、月日の経つのはとてつもなく速いのだ。
さて、先日、春の短歌のことを書いたが、今回は秋の夕暮れの短歌、「三夕の歌」のイメージを描いて見た。
「三夕(さんせき)」とは新古今和歌集にある「秋の夕暮れ」で結ばれる三首の和歌のことで、いずれも秋の風情を味わえる名歌である。
寂しさは~(寂蓮)
寂しさは その色としも なかりけり 槙立つ山の 秋の夕暮れ
(寂蓮法師)
(現代語訳)
「この寂しさは色によるものではないのだな。常緑樹の杉や檜が立ち並んでいる山の秋の夕暮れよ。」
体感で秋の夕暮れを味わう一句。地味だが、よく読むと三夕の中で夕暮れの情感がいちばん表れているのではないかと思えてきた。
常緑樹の山では、秋の夕暮れは、弱まった陽の光、冷たくなった風、木の匂いなどから感じるのだろう。夕焼けもあるだろうが、「色ではない」というこの句ではそれもなさそうだ。
考えれば、秋を象徴する紅葉は青空によく映えるが、特に夕方が良いということはない。この句で詠まれる夕暮れは色が乏しい分だけ、寂しく深く身に染みるのだ。
心なき~(西行)
心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ
(西行法師)
(現代語訳)
「世を捨てて出家したはずの我が身にも、もののあはれ、情景の深い趣は感じられる。鴫が飛び立ち静まりかえる水辺の秋の夕暮れよ。」
こちらは鳥が飛び立った後の静寂感、音で秋の夕暮れを味わう句。
下の句を「深山幽谷の渓谷に立つ鷺(さぎ)」のように曲解していたが、実は「沢」は湿地の小川、鳥は鷺ではなく「鴫(しぎ)」。さらに「立つ」は立っているではなく飛び立つの意味だと知った。
舞台は近隣の大磯町の「鴫立沢」という説が有力だが、現在は国道1号線が通る交通量が多い場所で、西行の頃にしても、決して深山幽谷ではない。だから句の実感が湧きづらい。
結局、静まり返る深山幽谷ではないが、鴫が羽ばたいた後潮騒だけが聴こえるような感じではないかと個人的に納得した(だとしたら「鴫立つ浜の~」となるのかもしれないが)。イラストもそんな海岸近くのイメージに落ち着いた。
上の句の方は、仏僧でもあはれを感じるなあという感慨なのか、修行が足りないという嘆きなのか。どちらなのだろう。
見渡せば~(藤原定家)
見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ
(藤原定家)
(現代語訳)
「見渡すと、春の桜も秋の紅葉も何もない。ただ海辺の苫葺(とまぶき)の小屋があるだけの秋の夕暮れよ。」
この句を使ったサントリーウイスキーのテレビコマーシャル(20年ほど前?)が印象に残っている。
「花も紅葉も」と言っておいて、「なかりけり」と打ち消す。海辺のあばら家以外何もない侘しい光景や無常感が際立つとともに、花(桜)と紅葉の残像が二重写しになる。CMもそんな内容だった。
人の心理を捉えた技巧が素晴らしいと思う。こうした技巧を嫌う向きもあるようだが、夢だとか、心象風景だとかモヤッとした幻想的なものが好きな自分には奥深い素晴らしい歌に思える。
ちなみに、この歌は源氏物語の明石や和歌山の二見ヶ浦の風景を想像して歌われたようだが、自分はもっと寂寞で荒涼とした日本海沿い、例えば富山だとかのイメージがある。これは人それぞれだろう。
花も紅葉もあり…
※ 短歌もイラストも素人です。短歌の解釈には個人的見解も含まれ、イラストも個人的な心象を表したものです。相違あればご容赦ください。