keepr’s diary(本&モノ&くらし)

ネット、読書、音楽、散歩、最近はイラストが趣味のおじさんです。趣味、商品、暮らしの疑問、感想を思いつくまま綴ります。

 【本サイトはアフェリエイト広告を利用しています】

【本の感想】米澤穂信「いまさら翼といわれても」


いまさら翼といわれても 「古典部」シリーズ (角川文庫)

あらすじ

古典部」シリーズ第6作。折木奉太郎の中学時代の行動の謎が明かされる「鏡に映らない」、井原摩耶花の漫研での揉め事と結末「わたしたちの伝説の一冊」、千反田えるが市内合唱コンクールから行方不明になる「いまさら翼といわれても」など、古典部メンバーの新たな出来事や奉太郎のモットーである「省エネ」の理由と変化が描かれる短編集。

目次

  • 箱の中の欠落
  • 鏡には映らない
  • 連峰は晴れているか 
  • わたしたちの伝説の一冊 
  • 長い休日 
  • いまさら翼といわれても
  • あとがき

感想

はじめに

古典部シリーズ6作目古典部シリーズは今まで全部読んでいる好きなシリーズで、2016年刊行当時に買おうかと思っていたのだが、当時の口コミなどで評価が悪いものもあり、二の足を踏んでしまいそのままになっていた。

「小市民シリーズ」を再読したので、そろそろこの本も読もうかなと思い、念のため、口コミを見ると全体的に評判が良い。中には低評価の意見もあるが、けなす人はどこでもいるよと読み始める。

一読しての感想は「なにか物足りない」。なんだろうと思い、改めて古典部シリーズを読み返してみた。

 

シリーズの作品と比べて

遠まわりする雛」「クドリャフカの順番」「愚者のエンドロール」。再読して最初は米澤穂信氏の学園ミステリー独特の「なにを細かいことをクドクドと」という感じはあるものの(日常の謎だから当然なのだが)、シリーズの世界に入り切ると、たまらなく面白く、改めて熱中してしまった。

なるほど、こういう面白さなのだと感心して、「いまさら翼といわれても」と比べてみると、最初に感じた物足りなさの理由が何となくわかった気がする。


古典部シリーズは日常的な謎をバカバカしいほどに真面目に追求する一方、著者の作品特有のある種のほろ苦い結末が特徴。それは本作でも同じだが、従来の作品にあった「ゆるさ」とか「のんびり感」が少なく、全体的にシリアスになっている印象がした。

 

文章でも、ふくちゃんの「巾着袋」がこの作品では出て来ないし、奉太郎の「さいで」も一箇所しか使われていない。

 

ところで、古典部シリーズの今までの作品と舞台になっている時期は次のとおりで、意外に時系列に沿っている。

題名 時期
1 氷菓 高一4月〜9or10月
2 愚者のエンドロール 高一8月下旬
3 クドリャフカの順番 高一10月カンヤ祭
4 遠まわりする雛 高一1学期〜春休み
5 ふたりの距離の概算 高二5月末
6 いまさら翼といわれても 高二5月,6月, 7月

 

作品の舞台になっている高校1年から2年にかけては、中学生の延長の時期から大人への成長過程の時期になり、自分では思い出せないが、多分心身の成長や変化が著しい時期なのだろうと思う。古典部シリーズメンバー、特に男子二人は高校1年にしてはありえないほど老成しているのだが、それでも、2年生になり下級生ができることもあって、メンバーそれぞれが成長しているようだ。

メンバーの成長、言葉を変えるとシリーズの成長といってもいいのだが、このために従来の作品にあった緩さが消えてしまっているのではないか。これはシリーズ前作の「ふたりの距離の概算」でも当てはまるように思う。


また、短編集なので長編に比べてエピソードごとの関連性が少なく、全体のまとまり感は欠ける。これは前々作「遠まわりする雛」でも見られる傾向だった。

こうした二つの要因が重なった結果、何か物足りない感じになっているのだろうと思う(もちろん個人的意見)。

 

賛否の評価がある理由

しかし、まとまり感は別にして、この「物足りない感」は、逆に見れば、メンバーの成長作品の深化とも言えるので、これを肯定的に感じる読者も多いのではないか。

自分も、2度目に読んだとき、作品が単なる学園ミステリーの枠からはみ出して、著者の「満願」や「王とサーカス」のような作品に近くなっている感じがした。

結局、読者がこのシリーズに何を求めるかで評価が変わってくるのだろうとは思うが、評価が変わるので、この作品は二度読むことをぜひおすすめしたい。

 

個々の短編について

作品としては、奉太郎の中学卒業にまつわる事件の謎を説く「鏡には映らない」、摩耶花の漫研からの脱却を描いた「わたしたちの伝説の一冊」が面白い。

タイトルになった最後の「いまさら翼といわれても」 は、行方不明になってしまった千反田の心情を理解するのが少し難しいが、読み返してみると、それに似た感情が二つ書かれていて、伏線になっている。それで少しわかった気がした。ただ、若いころの心理を思い返すのはなかなか難しい。

「箱の中の欠落」は、六月の夕方から夜、飛騨の高山市がモデルのような川沿いの道を奉太郎とふくちゃんが歩いて話しながら謎を解決するストーリー。冒頭、その時の情景や雰囲気を後になって忘れがたく思い出すのでは、と書かれていたが、連想で個人的な情景を思い出した。

それは、単身赴任で大阪にいたころ、社宅のあった天王寺区の高台から鶴橋のお好み焼き屋まで家族で20~30分の夜道を往復歩いたこと。季節はいつだったかは思い出せないが 、何か夜風が心地よく家族が一体となった心地よさがあった。そして、いつかこのことを思い出すのだな、とも思ったのだ。

閑話休題

 

奉太郎のモットー「やらなくてもいいことなら、やらない。 やらなければいけないことなら手短に」の原因となった小学校時代の体験を話す「長い休日」は、奉太郎の小学校時代に起きた「省エネ」の原因となった出来事が語られている。

遠まわりする雛」の一編「やるべきことなら手短に」で奉太郎の省エネの原因はわからないと述べていることとの整合性は置いて、この短編集が今までの作品からの脱却を目指しているのは間違いないようだ。

 

古典部シリーズの今後

「長い休日」の最後の部分の記述もそれを象徴している。

それで、不意に思い出した。あのときの姉貴が、人の頭をぐしゃぐしゃと搔きまわしながら付け加えたことを。 ──きっと誰かが、あんたの休日を終わらせるはずだから。(本作品より引用。以下同じ)

 

また、著者はあとがきで次のように述べている。

本書に収録されている短編は、どれも、いつかは書かれねばならなかったものです。読者の方々にお届けすることが出来て、ひとつ、大きな役目を果たせたような気がしています。

 

著者が「書かねばならなかった理由」はわからないが、個々が書かねばならない物語であるため、ストーリー全体の連続性や完成度に無理が生じてしまったところもあるのではと個人的には思う。一方、本作で古典部シリーズが終わってしまうのではとの推測も生まれてしまう。

古典部シリーズ」は漫画、アニメ、実写映画化もされ、著者自身のイメージからずれてきたので、その修正をする作品なのか、あるいはこれをもってシリーズ終了とするのか、詳しくないのでいい加減な解釈だが、そんな推測も成り立つ。

 

ただ「いまさら翼といわれても」の後、「米澤穂信古典部」という作品も出されているし、ずっと昔に著者が奉太郎の高校時代は全部描くといっていたようなので、、少し趣を変えて、高校2年後半から高校3年にかけての続編が書かれることを期待したい。


本作品を含む「古典部シリーズ」、読むほどに味わいが出る作品だ。シリーズの名前を知らない方はもちろん、漫画、アニメ、映画を見たことがある方でも一度は原作を読むことをおすすめしたいと思う。

 

この作品をおすすめしたい人

  • 古典部シリーズ」ファンの人
  • 漫画、アニメ、映画で「氷菓」など古典部シリーズを視聴した人
  • 学園ミステリーが好きな人
  • 米澤穂信の作風が好きな人

 

著者について

米澤 穂信(よねざわ ほのぶ、1978年-)は、日本の小説家、推理作家。岐阜県出身。岐金沢大学文学部卒業。学生時代から小説を書き始め、2001年学園ミステリー「氷菓」でデビューし、学園ミステリーや推理小説を執筆。日本推理作家協会賞(2011年「折れた竜骨」)や山本周五郎章(2014年「満願」)受賞のほか、ミステリーランキングの常連。

主な作品 

※ 著者、主な作品はWikipediaを参考にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

プライバシーポリシー 免責事項