keepr’s diary(本&モノ&くらし)

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【本の感想】堀辰雄「菜穂子」~ 懐かしきロマンの香り


菜穂子・楡の家 (新潮文庫)

 

 

あらすじ

夫の残したO村の別荘で暮らす三村夫人は、小説家森との関係などから生じた娘菜穂子との感情の軋轢を埋めようと心の動きを日記に書いていく。だが夫人は心臓病で急逝し、わだかまりを持ったまま菜穂子は勧められた縁談を受ける。--------「楡の家

夫や義母との生活に後悔を感じ始めた菜穂子は、結核で喀血し山奥の療養所(サナトリウム)で一人暮らすことになる。

菜穂子に思いを寄せていた幼馴染の明は、引きずっている気持ちを整理するため、昔暮らしたO村に滞在するうちに出会った娘と親しくなるが、やがて娘は結婚する。明は再び憂鬱になり、咳が出て体調が悪い中、何ものかを求めて旅を続けるが、O村で病に倒れ床に就いてしまう。

菜穂子は療養所で自然や一人きりの暮らしの中で次第に心の平穏を取り戻していく。夫圭介は一時菜穂子が気になり突然に療養所を訪ねたりするが、心のすれ違いは続く。

ある吹雪の日、不意に療養所を抜け出し東京に向かった菜穂子は、夫と逢うが心は通わない。夫と別れた後、菜穂子には、今日のように行き当たりばったりとじたばたするうちに新しい人生が現れるかもしれないという想いが湧いてくる。----------「菜穂子」

目次

楡の家
 第一部(1926年9月7日、O村にて)
 第二部(1926年9月23日、O村にて)
     菜穂子の追記
・菜穂子
 一~二十四

感想

小説らしい小説

ひさしぶりに小説らしい小説を読んだ気がする。

この小説が堀辰雄の代表作の一つということは以前から知っていて、青空文庫版で最初の方を読んだことがあるが、あまり面白いとは思わずに投げ出してしまった。

今、「堀辰雄大全」という時代順に作品が掲載された全集を読んでいて、ちょうど折り返し点のあたりにこの小説が載っていた。堀辰雄の作品や言い回しになれてきたので今回は抵抗なく読めた。

 

この作品は「美しい村」の後、作品の深度が深まってくる時期に書かれた作品だ。

調べると、この作品前半の「楡の家」と後半の「菜穂子」では7年の間隔があるらしく、全体としては堀の晩年の作品として知られているようなので、本来は全体の記述が終わった昭和16年の作品として掲載した方がいいような気がする。

 

楡の家

さてこの作品、特に前半の「楡の家」に描かれた軽井沢(追分)の別荘地の描写、雰囲気が菜穂子の母「三村夫人」の心理描写と重なって印象深い。

三村夫人の一人称の視点で描かれた「楡の家」は、性別年齢は全く異なるものの堀の多くの私小説的な作品、「美しい村」や「風立ちぬ」などと雰囲気が似ていて、読みやすかった。

 

内容は、たぶんもともと相性が良くない母と娘が小説家森(芥川龍之介がモデル)との関係を巡り、ギスギスしていく様子を母親からの視点で描いたもの。

 

私たちが其処にぼんやりと立ったまま、気持よさそうにつめたい風に吹かれていると、丁度その瞬間、その真向うの小山のてっぺんから少し手前の松林にかけて、あたかもそれを待ち設けでもしていたかのように、一すじの虹がほのかに見えだした。(本作品より引用。以下同じ)

 

三村夫人はできごとや心の動きを日記に付けていて、狭心症の発作で死後に菜穂子がこの日記を見つけて読むという流れだ。

三村夫人とは性別は違うが年齢は近い(実年齢でなく考え方などの年齢)ので、何となく共感できる部分が多い。

 

特に人は自分が思っている自分と他人が見ているものとが異なるが、どちらが本当の自分なのかと考える部分には、うなずいてしまった。

 

実はそういう人達——いわば純粋な第三者の目に最も生き生きと映っているだろう恐らくは為合わせな奥様としての私だけがこの世に実在しているので、何かと絶えず生の不安に怯やかされている私のもう一つの姿は、私が自分勝手に作り上げている架空の姿に過ぎないのではないか。……

  

もちろん自分は暮らしに困らない恵まれた環境とは程遠いいのであるが、人の内面は本人にしかわからないこれは男も女も同じだろう。

 

しかし、夫が残した軽井沢の別荘で過ごすというのはやはりうらやましい。堀に限らず当時の小説ではこうしたプチブルの人が結構登場する。何か今よりも金持ちは金持ちだったような気もする。少なくとも現在の自分のまわりにはそうした人はいないので。

 

軽井沢(当時は追分村なのだが今は軽井沢と言っていいと思うので)の自然の描写も特に秋などの様子も感慨深い。

 

この二三日で、ほんとうに秋めいて来てしまった。朝など、こうして窓ぎわに一人きりで何んということなしに物思いに耽っていると、向うの雑木林の間からこれまではぼんやりとしか見えなかった山々の襞までが一つ一つくっきりと見えてくるように、過ぎ去った日々のとりとめのない思い出が、その微細なものまで私に思い出されてくるような気がする。が、それはそんな気もちのするだけで、私のうちにはただ、何んとも云いようのない悔いのようなものが湧いてくるばかりだ。

 

ちなみに話の中に出てくる別荘の庭、楡の木の下に造られた木の椅子が、何か象徴的な意味があるように思うのだが、そういえば、直接は関係ないが軽井沢には星野リゾートの「ハルニレテラス」があり、楡の並木があったことを思い出した。

 

「菜穂子」

後半の「菜穂子」になると雰囲気は一変して、古典的な純文学の物語になる。こういう小説、昔三島由紀夫などの作品も大分よんだが嫌いではない。

菜穂子、夫の黒川圭介、幼馴染の明が登場してそれぞれの視点で話が展開していく。


一番印象深いのは菜穂子の療養所での部分。四季の自然が美しいし、秋から冬へ変わる自然、雪が降るまでの暗鬱な景色など心に響くものがあった。

 

八ヶ岳にはもう雪が見られるようになった。それでも菜穂子は、晴れた日などには、秋からの日課の散歩を廃さなかった。しかし太陽が赫いて地上をいくら温めても、前日の凍えからすっかりそれをよみ返らせられないような、高原の冬の日々だった。

  

結婚に後悔を感じていた菜穂子は1人きりの生活で平穏な心を取り戻すが、終盤、ある吹雪の日衝動的に療養所を抜け出し東京に向かう。


療養所(サナトリウム

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旧富士見高原療養所資料館 | 文化施設情報 | 長野県のアートイベント情報発信サイト カルチャー・ドット・ナガノ より引用


ところで、堀自身結核を患い八ヶ岳山麓の「富士見高原療養所」に入院していたので、堀の小説には療養所がよく登場する。

戦前の、まだ特効薬のペニシリンがない時代では、結核死に至る病で、回復して長寿を得た人もいるがサナトリウムに入るのは相当心理的、肉体的にもつらいものだったのだろう。

 

結核が一応治る病気になった今では、自然環境の良い場所で日光浴などで結核を治そうとする療養所が、どの程度効果があったのか、どんな雰囲気だったのかも実感しにくい。

 

こんなことを言っては怒られるが、山奥の自然にあふれた環境で療養することに少しロマンを感じる。

 

風立ちぬ」にも出てくるが、冬の閉ざされた療養所に死と隣り合わせで過ごす状況は例えようもなく寂しいが甘美な気もするのだ。

 

堀の小説を読むといつもそんなことを感じるが、この小説も療養所が舞台の部分が多いので同様に感じる。


登場人物への感想

さて、文学論としてはそれぞれの心の動きがどうとかあるのだろうが、自分はそうしたことにあまり関心はなく、それぞれの登場人物の心理や描写に共感して読んでいくタイプなのでので、菜穂子の夫「圭介」の、世間体や母との関係を気にする心理や、覚めた目をした女性に対する嫌悪などが、実は自分と一番共通する部分で、自分を見るようで嫌だった。

 

一方、病気の中あてのない旅を続ける明の悲劇的な様子は理解しにくい。自分ならわだかまりはあってももう少し現実的に生きる。金銭的な問題もあるだろうし。

 

だから逆に昭のような後先を考えない自己破滅的な生き方にあこがれもする。自分もそうした人生であっても良かったもかもしれない。

蛇足だが昭の病気が結核なのかどうか、喀血の描写はないのでわからないが気になる。


異性である菜穂子の気持ちは実際ほとんど理解できない。女性はいつの時代も外面と内面の乖離が大きいので外から見ると面倒くさい。異性、同性にかかわらずそうだろう。

それは別として、何かに耐えて、自分を押し殺して生きてきた部分には共感がある。だから、最後で自己解放するような気持ちになっていく部分はカタルシスを感じた。

 

結末

結核を患いながらサナトリウムを飛び出して東京に出てきた菜穂子や、旅の末に追分で病に倒れた明の行く末は、読者にゆだねられている。

 

病状から見てどちらが死んでも、実は永らえているとしてもおかしくない。そしてそれは結末や読後感に何ら影響を与えないような気もするのだ。

 

給仕が食事の用意の出来たことを知らせに来た。彼女は黙って頷き、急に空腹を感じ出しながら、その儘自分の部屋へは帰らずに、さっきから静かに皿の音のし出している奥の食堂の方へ向って歩き出した。


読み終わって、唐突に幕が閉じた感じはあったものの、古き良き文学の香りに浸り、濃密な読書の時間を送ることができた。

純文学が好きな方にはおすすめしたい小説だ。

 

この作品をおすすめしたい人

  • 格調高い純文学を読みたい人
  • 昭和初期のロマンの世界に浸りたい人
  • 軽井沢周辺の雰囲気が好きな人
  • 堀辰雄が好きな人

 

著者について

堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日 - 1953年(昭和28年))

私小説的な日本の小説に、意識的にフィクションによるロマン(西洋流の小説)を確立しようとした。フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典や王朝女流文学にも注目して、それらを融合させて独自の文学世界を創造した。肺結核を病み、軽井沢に療養することも度々あり、そこを舞台にした作品を多く残した。

戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の立原道造中村真一郎福永武彦、丸岡明などから支持された。戦争末期からは結核の症状が悪化し、戦後はほとんど作品の発表もできず、闘病生活を送り48歳で死去した。

 

主な作品

  • 『聖家族』1930年
  • 『燃ゆる頬』1932年
  • 『美しい村』1933年
  • 風立ちぬ』1937年
  • 『かげろふの日記』1937年
  • 『菜穂子』1941年
  • 『大和路・信濃路』1943年

著者・主な作品 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

堀辰雄 - Wikipedia

 


風立ちぬ/菜穂子 (小学館文庫)

 


堀辰雄大全

 

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