平安時代や鎌倉時代には臨終の時に念仏を唱え、阿弥陀如来の仏像や絵画から引いた糸を握ると極楽浄土に行けると信じられていたらしい。糸の話はさておき、南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽往生ができるという浄土系の教えには安心感がある。
また、生まれ育った町では海辺や町中どこからでも近くの山が見え、山の向こうの世界に憧憬を抱いた記憶があり、山越しにそびえ立つ山越※阿弥陀の画には、山の向こうに立つ巨大な恐るべきもの(ウルトラマン、怪獣、巨人、巨神、異神)といったイメージがあるのだ。
昔、京都の永観堂禅林寺に紅葉ライトアップを見に行った折、たまたま見返り阿弥陀の特別拝観があり、模写だったのかも知れないがその時に「山越阿弥陀来迎図」も拝観した。
永観堂の寺宝一覧(Cultural Heritages of Eikando)
山越阿弥陀という言葉から連想するイメージは、山頂を遥かに超えてこちらを見下ろす、巨大な阿弥陀さまであり、永観堂の来迎図もそれなのだが、個人的には京都金塊光明寺の「山越阿弥陀図屏風」が自分のイメージにより近い。
その「山越阿弥陀屏風図」や類似の作品を参考にさせていただき、山越阿弥陀をペイントソフトで描いてみた。
中央が来迎印を結ぶ阿弥陀如来、向かって右が観音菩薩、左が至勢菩薩という仏。
背景は真っ暗だが、ひとまず原画のイメージで塗ってみたもの。原画では山も描かれているが、むしろ何も描かないほうが自分のイメージに合うので、山影だけにさせていただいた。
※「やまごえ」ではなく「やまごし」が正しいようです。自分は、山を越えて臨終の人を迎えに来る「やまごえ」というイメージでしたが、阿弥陀さま自身は山は越えず、先達の菩薩が迎えに来て、阿弥陀如来は山の向こうで「おまえは安心して来なさい」と呼びかけるイメージなのかも知れません。
いずれにしても、仏は時空を超えているのでどこにいても同じ。人が勝手に考えるイメージなのでしょう。