恋愛もセックスもしない「アロマンティック・アセクシュアル」の男女の物語。第2回は同居することになった咲子と高橋は、恋人を「擬態」して咲子の家に行くが、家族との通い合わない会話の中で咲子がこらえきれずに怒って、飛び出してしまうというストーリーだ。
この物語はあまり知られていないアロマンティック・アセクシュアルを描いたデリケートな話なのだが、見ていて色々と考えさせられるものがあった。
ドラマで咲子の妹の旦那から「男は台所に立つものでないと言うと、即アウト」のような言葉があったが、考え方は人それぞれ、それを強制(矯正?)する社会は如何にも押し付けがましい。また、同じ旦那の言葉で「LGBTみたいなもの?」というセリフもあったが、なぜそんなふうに人を類型化するのだろうと思った。恋愛、性行動は別にしても、人の性格は千差万別、一人が好きな人もいるし、放っておいて欲しい。
この「アロマンティック・アセクシュアル」は、例えば発達障害でコミュニケーションが苦手な人ともまた違うのですね。人って本当に奥が深い。
このドラマを見て、なるほどこういう人もいるのだな、と知ってもらうだけでいいし、あえて「アロマンティック・アセクシュアル」と類型化して覚える必要もない。言葉にしてしまうとそれで終わってしまうからだ。
昨今「LGBT」が取り上げられているのは、声が大きい人が多いからだろうが、本当に人間一人ひとりには様々な特徴があって一人として同じ人はいないので、そうした類型化や切り出しはしないほうが良い、と個人的に思っている。
類型化したり、権利を主張することではなく、一人ひとりが違うこと、一人ひとりにいいところも悪いところもあるとみんなが理解すること、それに尽きるのではと思う。
金子みすゞさんの詩「私と小鳥と鈴と」のように「みんなちがって、みんないい」といえばいいのではないか。
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
「世界に一つだけの花」でもいい。