60年前に通った小学校の跡地は今公園になっていて、校舎も運動場も砂利が敷かれた広場に変わっている。
当時と変わらないのは樹齢何百年かの松、楠木、ヒマラヤ杉などの大木で、それを目印に昔の校舎や図書館の位置を確かめても、子供の頃の感じよりはるかに小さい。
ここは時折訪れるが、昔過ぎるせいなのか、なぜか懐かしさは余り感じない。だが、先日訪れた時、校舎の近くにあった排水口と半分に割れた大きな網状の鉄の蓋を見かけて、「ああ、この蓋のところで誰かと話した記憶がある。」と懐かしさが蘇った。
だが、少し経つと、現実に記憶があったのか疑わしくなった。現実かもしれないが、小学校を舞台にした夢の中で思い浮かべただけなのかも知れない。或いは、以前ここを訪れ、この排水溝を見つけた時のことを小学校の頃の思い出と勘違いしているのかもしれない。
人生が多少長くなると、さまざまな記憶が上書きされて、現実にあったのか、夢か想像なのか不明瞭になる。中高年のみなさま、そんなことはないだろうか。
個人の記憶でさえ曖昧なのだから、国だとか集団の記憶は更に当てにならないのだろう。現実の出来事なのか、そうなればいいと言う夢なのか、誰かが意図的に流した噂なのか。
そうして、時間の中で、現実と伝説と嘘の境目が朧になる。そんなことを考えた。