長年乗っていた自転車が半年ほど前からチェーンが外れるようで時々空回りするようになり、最近とうとうだめになった。空回りするほうが多くなり、ペタルに繋がってもすぐに空転する。
自転車屋さんに見てもらうと、チェーンが外れるのではなく、ギアがだめになっているとのこと。修理すると5、6千円かかるということなので、引き取ってもらうことにした。長年お疲れさまでした。
事情があって、引き取ってもらうまで、あと1月余りあり、もう一台自転車はあるのだが、愛着があり淋しげに見えるので、時々乗ってみる。
足漕ぎ、いや足蹴りを前提にすれば乗れないことはない。人の目が少し気になるのと、たまたまうまく回ってもいつ空回りするかわからないハラハラ感と、空回りした時に少しバランスが崩れることの恐怖を感じながら乗る。もちろん、人通りか多いところや車の通る場所では乗らないが。
空回りするとバランスが崩れるのは、ペタルを漕ぐ前提で予測して、バランスを取っているからだろう。なるほど。
ギアが空回りせずに繋がった時にはうれしくなる。ああ自転車ってこんなに素晴らしかったのかと。
そんなふうに使っているうち、これはこれで一つの使い方なのだなと思えてくる。考えれば自転車は発祥時は足蹴りだった。蹴りでも歩くよりは早いし楽だ。
最近幼児用の自転車にペダルがなく、何だあれは!とバカにしていたのだが、足蹴り自転車にも味わいがある。
何かが不足すれば工夫して補うのも楽しみがある。あえて人に置き換えるつもりもないが、なんとなく人生にも繋がるような話だな。