あらすじ
「私」は軽井沢で出会った娘(「美しい村」に登場)と婚約するが、婚約者は結核を患い、主人公は婚約者に付き添って高原の療養所で二人の日々を送る。婚約者の死への不安と向き合いながら暮らす濃密な時間と揺れ動く心の動きを、厳しくも美しい自然とともに描く。
目次
- 序曲
- 春
- 風立ちぬ
- 冬
- 死のかげの谷
感想
何回目かの読書
さて、「風立ちぬ」。この作品は堀辰雄の作品で筆者が一番好きな作品で、もう何度目かの読書である。
最初に読んだ時はストーリーを追った。2回目以降はより深く主人公の心理も考えたつもりだった。しかし、今回改めて読み直してみると微妙に異なる読後感を感じた。
ここはこんな風に章が終わるのか、エンディングはこんな終わり方だったかと意外な感じもしたのだ。
恐らく、間隔が空いて記憶が薄れたせいなのだろうが、自分の年齢の積み重ねとか、もしかすると読み方が変わったせいなのかもしれない。
ただ、今回はより深くは読めたような気がするので、感想を書いてみたい。
ストーリーの流れ
序曲
それらの夏の日々、一面に薄の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……
(本書より引用。以下同じ)
冒頭の夏の高原の描写は何度読んでも印象深く、絵画的な自然の風景や音楽的な文章が美しい。著者の作品「美しい村」から繋がっていると思われるのだが、「美しい村」での恋人との躊躇いがちな交際から進展し、多分恋愛の一番いい時期なのだと思う。
キャンバスが倒れたのに、
今の一瞬の何者をも失うまい
と「お前」を無理に引き止めた時、ふと口に出た、
風立ちぬ、いざ生きめやも。
という言葉は、恋愛でありそうな感情ではあるけれども、この作品の内容を暗示する言葉になっているようだ。
恋人が父と高原から去った後の、悲しみにも似た幸福の感情や、秋になり、夏に恋人と一緒に行った高原で感じた自己肯定感は、昔の恋愛ごときものを思い出し、何か共感してしまうのだ。
お前達が発って行ったのち、日ごと日ごとずっと私の胸をしめつけていた、あの悲しみに似たような幸福の雰囲気を、私はいまだにはっきりと蘇らせることが出来る。
そして私はその傍らの、既に葉の黄いろくなりかけた一本の白樺の木蔭に身を横たえた。其処は、その夏の日々、お前が絵を描いているのを眺めながら、私がいつも今のように身を横たえていたところだった。あの時には殆んどいつも入道雲に遮られていた地平線のあたりには、今は、何処か知らない、遠くの山脈までが、真っ白な穂先をなびかせた薄の上を分けながら、その輪廓を一つ一つくっきりと見せていた。
春
作品の記述から、「序曲」の後、恋人と婚約し、彼女が結核を発病したことがわかる。恐らく「序曲」の終わりの秋から1年半経っている、3月から療養所に旅立つ4月下旬までの出来事であろう。
婚約者となった恋人が病に伏しながらもまだ寝たり起きたりの生活ができていて、婚約者の実家を訪れる「私」は、不安の中に安らぎのある貴重な日々を過ごす。
それから私達はしばらくそのまま黙り合っていた。そうすることがこういう花咲き匂うような人生をそのまま少しでも引き留めて置くことが出来でもするかのように。
それは、私達がはじめて出会ったもう二年前にもなる夏の頃、不意に私の口を衝いて出た、そしてそれから私が何んということもなしに口ずさむことを好んでいた、風立ちぬ、いざ生きめやも。という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達に蘇ってきたほどの、——云わば人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでに愉しい日々であった。
しかし、療養所の院長の診察でかなり症状が進んでいることを聞かされた「私」の様子から、婚約者は自分の症状が重いことを知る。
「御免なさい」彼女はとうとう口をきいた。その声はまだ少し顫えを帯びていたが、前よりもずっと落着いていた。「こんなこと気になさらないでね……。私達、これから本当に生きられるだけ生きましょうね……」 私はふりむきながら、彼女がそっと目がしらに指先をあてて、そこにそれをじっと置いているのを認めた。
汽車は徐かにプラットフォームを離れ出した。その跡に、つとめて何気なさそうにしながら、ただ背中だけ少し前屈みにして、急に年とったような様子をして立っている父だけを一人残して。——
この章は短いが、療養所へ向う前の、婚約者と過ごす束の間の月日が、はかなくじんわりと心に沁みるのだ。
風立ちぬ
高原の療養所(富士見高原療養所)での4月末から初夏、夏、秋にかけての2人の生活を綴る、季節の変化と自然の描写が美しい章である。
季節はその間に、いままで少し遅れ気味だったのを取り戻すように、急速に進み出していた。春と夏とが殆んど同時に押し寄せて来たかのようだった。
富士見高原療養所( 旧富士見高原療養所資料館 | 文化施設情報 | 長野県のアートイベント情報発信サイト カルチャー・ドット・ナガノ より引用)
⇩ 現在は資料館があります。
療養所に入った婚約者は症状が重く安静を命じられる。夏から秋にかけて、療養所で一番重かった患者が亡くなり、自死する患者も出る。10月に父が訪れた時に少し無理をした婚約者は絶対安静になってしまい、症状は徐々に重くなっていく。
看護婦は部屋を出て行きながら、何処に居ていいか分らなくなってドアのところに棒立ちに立っていた私に、ちょっと耳打ちした。「すこし血痰を出してよ」
その一方で、初夏のある夕方や、秋の日の午前に、病室から見える山の風景に永遠の至福の感情を感じるなど、絶望的な中にも幸福感のある日々を過ごすのだった。
——我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ、そして、こんなささやかなものだけで私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、と云うことを私は確信して居られた。
そんな或る夕暮、私はバルコンから、そして節子はベッドの上から、同じように、向うの山の背に入って間もない夕日を受けて、そのあたりの山だの丘だの松林だの山畑だのが、半ば鮮かな茜色を帯びながら、半ばまだ不確かなような鼠色に徐々に侵され出しているのを、うっとりとして眺めていた。(中略)——私は、このような初夏の夕暮がほんの一瞬時生じさせている一帯の景色は、すべてはいつも見馴れた道具立てながら、恐らく今を措いてはこれほどの溢れるような幸福の感じをもって私達自身にすら眺め得られないだろうことを考えていた。
そしてその上から、嘗て私達の幸福をそこに完全に描き出したかとも思えたあの初夏の夕方のそれに似た——しかしそれとは全然異った秋の午前の光、もっと冷たい、もっと深味のある光を帯びた、あたり一帯の風景を私はしみじみと見入りだしていた。
冬
この章からは、日記形式になり、療養所の外の散策と著作の記述が多くなる。二人の生活を綴ったノートはほとんどできあがったが、婚約者の病状が重くなった記述でこの章は終わる。
(1935年10月20日~12月5日)
私はそれから急に力が抜けてしまったようになって、がっくりと膝を突いて、ベッドの縁に顔を埋めた。そうしてそのままいつまでもぴったりとそれに顔を押しつけていた。病人の手が私の髪の毛を軽く撫でているのを感じ出しながら…… 部屋の中までもう薄暗くなっていた。
療養所を外から眺める視点が多く、そのことがより二人の儚さを感じさせる。
死のかげの村
1年後、私は冬の軽井沢の一軒家で著作を続ける。回想の中で婚約者の危篤を示す描写はあるが、彼女の死は描かれていない。それが著者の悲しみの大きさを表しているようにも感じる。
「——だが、この明りの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ許りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかも知れないのだ……」 そんな思いがけない考えが、私をいつまでもその雪明りのしている寒いヴェランダの上に立たせていた。
婚約者への感謝の気持ちは綴られるが、著者はまだ婚約者の死の痛手から立ち直れてはいない。心の内を表すような風景描写でこの物語は終わる。
(1936年12月1日~12月30日)
(略)又、どうかするとそんな風の余りらしいものが、私の足もとでも二つ三つの落葉を他の落葉の上にさらさらと弱い音を立てながら移している……。
重層的な心理と時間の流れ
さて、この小説の「春」以降の著者の心理については、次の3つの想いが感じられる。
- 著者が思い描いていた「病弱な娘と2人きりで山奥の一軒家で暮らす」憧憬に対する罪悪感
- 別れへの不安と絶望の中での、婚約者との永遠にも似た至福感
- そうした生活を題材に作品にしていくことの罪悪感
こうした重層的な感情が作品に奥行きを与えている。特に2つ目の不安、絶望の中での一種の高揚感、至福感は、もちろん自分には経験したことはないのだが、状況が絶望的である一方、恋人と2人だけのくらしの中では、そうした想いはより高まるのではないか。
こうして病人と共に愉しむようにして味わっている生の快楽——それこそ私達を、この上なく幸福にさせてくれるものだと私達が信じているもの、——それは果して私達を本当に満足させ了せるものだろうか?私達がいま私達の幸福だと思っているものは、私達がそれを信じているよりは、もっと束の間のもの、もっと気まぐれに近いようなものではないだろうか?……
当時、戦前の日本では結核は死因の第1位で、死因の1割にも及んでいたようだ。根本的な治療法は戦後の抗生物質の出現を待たねばならなかった。
作品にはあえて書かれていないが、呼吸器系の病気の症状は、肉体的にも精神的にもかなり辛いと思われる。決して楽な症状ではないだろう。今でいえば、ガンが近いのかもしれないが、当時は緩和ケアもなかっただろう。
そうした中では、例え、時に永遠を感じる高揚した時間はあったとしても、現実には不愉快なザラザラとした感覚や互いにすれ違いの感情もあったろう。むしろそうしたもの方が多いはずだ。
著者は本当はそんなネガティブな感情や思い出を作品を書くことで浄化し救われたのではないか、と思った。
時間の流れ
もうひとつこの作品を立体的にしているのが、時間の流れではないかと感じた。
「序曲」から「春」までの間や、「冬」から「死のかげの谷」の間にはそれぞれ1年かそれ以上の時間の隔たりがある。
「序曲」の後には、婚約、婚約者の発病があるし、「冬」と「死のかげの谷」の間には婚約者の死が存在する。あえて、それらを書かず、読者の想像力に任せていることが作品に深みを与えているのだと思う。
この作品は日記のようなたんたんとした記述で、同じように療養所の生活を綴った「菜穂子」のような物語的な要素は少ない。やや物足りなく思える一方、著者と婚約者の不安、絶望と透明な幸福感、そして悲しみはより深く感じられるような気がするのだ。
堀辰雄の実生活と作品の対比
本作と堀の実生活との年表を次のとおりまとめてみた。
堀辰雄 - Wikipedia を基に作成
実生活では堀も発病し婚約者と二人で療養所に入っているが、本作では「私」は付き添いで滞在している形になっている。この方が婚約者の病気や死を浮き立たせているし、二人の生活をより深く純化しているように思える。
感想まとめ
堀辰雄の作品は西洋的で文学的香りが溢れるような作品が多い。
本作も同様で、淡々とした語り口の一方、冒頭の記憶に残る文章、恋愛のときめきと不安、絶望と不安の中での重層的、立体的な時の流れを療養所の西洋的な雰囲気で綴った名作だ。文章やヒロインの言葉などに時代を感じる点はあるが、若い方にもぜひ読んで欲しい作品だ。
「風立ちぬ」で検索すると、今はジブリの映画の方が先に出て来てしまうが、映画「風立ちぬ」は、ゼロ戦開発者の物語に、堀辰雄の「菜穂子」「風立ちぬ」をミックスした全く別の作品である。
松田聖子の「風立ちぬ」(作詞:松本隆 作曲:大瀧詠一)のタイトルも堀のこの作品からとったものだろう。
オリジナルのこの名作をぜひ手に取って欲しい。
この作品をおすすめしたい人
著者について
堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日 - 1953年(昭和28年))
私小説的な日本の小説に、意識的にフィクションによるロマン(西洋流の小説)を確立しようとした。フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典や王朝女流文学にも注目して、それらを融合させて独自の文学世界を創造した。肺結核を病み、軽井沢に療養することも度々あり、そこを舞台にした作品を多く残した。
戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の立原道造、中村真一郎、福永武彦、丸岡明などから支持された。戦争末期からは結核の症状が悪化し、戦後はほとんど作品の発表もできず、闘病生活を送り48歳で死去した。
主な作品
著者・主な作品 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
⇩ 年代順の全集です
⇩ あいうえお順の全集です