あらすじ
「僕」は訪れた友人らとともに近くの鵠沼海岸へ最近評判になっている蜃気楼を見に行く。途中、似たような「新時代」の服装をしたカップルや海での水葬者に付けられたらしい札を見つける。夜にも妻と友人の3人で鵠沼海岸を歩くと星が見えない真っ暗な中、砂の反射でお互いの顔がぼんやりと見えることに気づく…神経症からは回復していないものの、「僕」と友人、妻との何気ない日常を描いた作品。
目次
なし
感想
芥川の晩年の作品。河童や歯車を読んで、正直つらく重苦しい気分になったが、この作品は同じ時期の作品にもかかわらず、芥川の住まいの藤沢の鵠沼海岸を蜃気楼を見るために散策するという、些細で平凡な日常を描いた作品であり、何かほっとする。
秋の日に東京から訪れたが大学生K君と近くの友人のO君と連れ立って、海岸までブラブラ散歩がてら、蜃気楼を見に行く。
路の左は砂原だった。そこに牛車の轍が二すじ、黒ぐろと斜めに通っていた。僕はこの深い轍に何か圧迫に近いものを感じた。(作品より引用。以下同じ)
砂浜の上には青いものが一すじ、リボンほどの幅にゆらめいていた。(中略)「あれを蜃気楼と云うんですかね?」K君は顋を砂だらけにしたなり、失望したようにこう言っていた。
蜃気楼はあまり大したことはなく、似たような「新時代」の服装をしたカップルに出会い驚かされたり、海で水葬する際に水葬者に付けられたと想像する札を見つけたことなど、何気ない日常と作者のふとした違和感が描かれる。
木札はどうもO君の推測に近いものらしかった。僕は又何か日の光の中に感じる筈のない無気味さを感じた。
「蜃気楼か。」 O君はまっ直に前を見たまま、急にこう独り語を言った。それは或は何げなしに言った言葉かも知れなかった。が、僕の心もちには何か幽かに触れるものだった。
夜にも同じ海辺に妻と友人O君と鵠沼海岸を歩く。マッチの火で、真っ暗な波打ちの漂着物が照らし出されたり、歩くと鈴が鳴るのが不思議だったり、星が見えない真っ暗な中、砂の反射でお互いの顔がぼんやりと見えることに気づくなど、夜も特に何事も起こらない。
「あたしの木履の鈴が鳴るでしょう。——」しかし妻は振り返らずとも、草履をはいているのに違いなかった。「あたしは今夜は子供になって木履をはいて歩いているんです。」
何か日常感があふれて(いい意味のけだるさ)、些細な出来事の面白さがあり、何となく癒される作品だ。
同じような感じの作品を読んだことがあると思ったら、志賀直哉の「焚火」だった。「焚火」が湖岸、「蜃気楼」は海岸でのできごというのが似ているし、友人、知人たちの散策、何気ない日常という内容も似ています。ネットの解説を見たら、芥川は「焚火」をモチーフにしたかもしれないと書いてあった。やはり。
ただ、この作品を書いた数か月後に芥川は自殺するということもあり、かなり精神的に追い詰められた状態の中で一時的な安定、病気の一時的な小康状態なのだったのだろう。
ただ考えてみると人が生きていること自体が「死に至る病」なので、人生の精神的な「小康状態」は多かれ少なかれ、誰でも言えることなのかもしれないと思う。そういう意味でこの作品に共感するのかもしれない、ふと思った。
芥川の晩年の作品の中で読みやすい作品です。おすすめします。
(蛇足ですが、鵠沼海岸では、現在も蜃気楼が見られますが、魚津のものより小規模で、浮島現象とも言われているようです。↓) massa0216.blog.fc2.com
この作品をおすすめしたい人
- 純文学が好きな人
- 完成度が高い短編を読みたい人
- 日常の中に小さいがさまざまな面白さを感じたい人
- 芥川の晩年の作品を読んでみたい人
著者について
芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日)は、日本の小説家。本名同じ。
その作品の多くは短編小説である。また、『芋粥』『藪の中』『地獄変』など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。『蜘蛛の糸』『杜子春』といった児童向けの作品も書いている。
主な作品( 代表作)
著者・主な作品 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』