あらすじ
明治時代中期、警視庁の八田巡査は機械のように職務に取り組む人間。股引の破れた人力車の老車夫を見苦しいと怒鳴リつけ、夜の巡回中に霜の降りる中行き場のない母子を軒先から追い立てる。夜半の巡回中、偶然恋仲の娘とそれを許さない老人(伯父)の二人連れに遭遇し、娘とのいさかいから足を踏み外し堀に落ちた老人を助けるため、堀に飛び込む。
目次(構成)
一~六(短編です。)
感想
夜行巡査という題名は怪しげで江戸川乱歩などの怪奇物語を想像させるが、内容は怪奇とは無縁で、職務に忠実で温情のない巡査(今より遥かに権限があり威張っていた)を描いた小説です。
短い短編ですが、印象に残ったのは明治時代の深夜の東京の描写。しんしんと静まり返る夜、町の軒先で寒さを凌ぐ家のない母子、堀端の芝生に白く積もる霜、栄光公使館の赤黒い(ランプかな)灯り、ガス燈。
されば路すがらの事々物々、たとえばお堀端の芝生の一面に白くほの見ゆるに、幾条の蛇の這えるがごとき人の踏みしだきたる痕を印せること、英国公使館の二階なるガラス窓の一面に赤黒き燈火の影の射せること、その門前なる二柱のガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、(略)(作品より引用。以下同じ)
そして、矢田巡査の恋人である娘のしとやかさ、品の良さがいいですね。
「伯父さんおあぶのうございますよ」半蔵門の方より来たりて、いまや堀端に曲がらんとするとき、一個の年紀少き美人はその同伴なる老人の蹣跚たる酔歩に向かいて注意せり。
観念小説
この小説は当時「観念小説」と言われていました。「観念小説」とは、「ある観念の具象化を目的として書かれた小説」のことで、特に日清 (にっしん) 戦争直後に現れた、現実社会の矛盾・暗黒面に対する作者の観念を問題意識として提出した小説をさすようです。泉鏡花の「夜行巡査」(この作品)、「外科室」、川上眉山 (かわかみびざん) の「書記官」「うらおもて」などが代表といわれています。
日清戦争が1894~1895年、この作品が書かれたのが1895年なので、まさに同時期です。ただ、現在では小説は多かれ少なかれ社会批判を含むものが多く、また、社会制度を批判する作品であれば、プロレタリア文学や島崎藤村の「破戒」のほうが頭に浮かぶのでちょっとピンときません。
そんな疑問で調べてみたら自分の理解ではこんなことのようです。
- 当時主流だったの硯友社の尾崎紅葉や幸田露伴らの通俗的、文芸的な小説に対して、日清戦争(1894年~1895年)後、社会、経済の近代化と封建的な価値観の対立や、貧富の差の拡大などに対して半俗精神による社会批判を表現→「観念小説」・・・【泉鏡花「夜行巡査」「外科室」、川上眉山「大盃」「書記官」「うらおもて」など】
- 社会の悲惨な現実の写実的に描写→「悲惨小説」、「深刻小説」・・・【田山花袋「断流」、北田薄氷「乳母」、徳田秋声「藪こうじ」、小栗風葉「寝白粉」、江見水蔭「女房殺し」、樋口一葉「にごりえ」など】
- より社会的・政治的問題を取り上げ、その矛盾や暗黒面を描写→「社会小説」・・・【内田魯庵「くれの廿八日」「社会百面相」、徳富蘆花「黒潮」、矢野龍渓「新社会」、広津柳浪「非国民」、徳田秋声「惰けもの」、小栗風葉「政駑」「ストライキ」、後藤宙外「腐肉団」、小杉天外「新学士」「新夫人」など】
- さらに1897年以降(明治30年代)に日本でも社会主義思想が広がり始めると、社会主義の理念に基づく社会主義小説(しゃかいしゅぎしょうせつ)、1920年代~1930年代前半のプロレタリア文学につながっていく。
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だいぶ寄り道しましたが、本作に戻ります。
主人公の八田巡査は職務第一、感情のない機械のような人間です。温情も何もありません。行動原理はまず自分の職務と規律。庶民を守るのでなく、庶民を監視する、規則を守らせる。機械のように職務に忠実ですが、血も涙もない役人といっても良いでしょう。
その歩行や、この巡査には一定の法則ありて存するがごとく、晩からず、早からず、着々歩を進めて路を行くに、身体はきっとして立ちて左右に寸毫も傾かず、決然自若たる態度には一種犯すべからざる威厳を備えつ。制帽の庇の下にものすごく潜める眼光は、機敏と、鋭利と厳酷とを混じたる、異様の光に輝けり。
すごいですね!
一方、恋人の伯父である老人も、昔振られた相手の娘を、復習するために育てたという相当いびつな人間で、復讐のため娘の八田巡査へ想いを許さない偏屈者。
結局どちらも死んでしまう。
ときに寒冷謂うべからず、見渡す限り霜白く墨より黒き水面に烈しき泡の吹き出ずるは老夫の沈める処と覚しく、薄氷は亀裂しおれり。
「助けてやる」「伯父さんを?」「伯父でなくってだれが落ちた」「でも、あなた」巡査は儼然として、「職務だ」「だってあなた」巡査はひややかに、「職掌だ」お香はにわかに心着き、またさらに蒼くなりて、「おお、そしてまああなた、あなたはちっとも泳ぎを知らないじゃありませんか」「職掌だ」「それだって」「いかん、だめだもう、僕も殺したいほどの老爺だが、職務だ!断念ろ」
「職務だ」「職掌だ」…
このあたりは恋人相手なので巡査も言動に人間味がありますが…。(どうしてこんな人をこの娘が愛したのかはとても不思議です。)
泳げないのに真冬の堀に飛び込んだ八田巡査は今の感覚で言えば、職務でもなんでもなく犬死もいいところで全く訳がわかりません。訳がわかりませんが、当時まだ江戸時代の武士道精神も残っていて、身を捨てても義を取る、義とはこの場合は巡査の職務ということではないでしょうか。
この小説で言いたいのは、作中で語られているように、職務、規則より仁、思いやりが大事ということでしょうか。時代背景も泉鏡花の思想も詳しくないのでそれ以上はわかりません。
単に職務横暴で温情のない巡査を批判しただけなのか、政府批判なのか?
もし日露戦争の後だったら、悲惨な旅順、二〇三高地の戦いの無駄な死を批判したとも言えるのですが、日清戦争はどうだったのか詳しくないのですみません。
何やらとりとめなく書いてしまいました。
色々と考えが広がる作品でした。
この作品をおすすめする人
- 明治の文学に触れたい人
- 文学を幅広く読みたい人
- 明治中期の東京の夜の雰囲気を味わいたい人
- コンパクトで凝縮した短編が読みたい人
著者について
泉 鏡花(いずみ きょうか、1873年(明治6年)11月4日 - 1939年(昭和14年)9月7日)は、日本の小説家。明治後期から昭和初期にかけて活躍した。小説のほか、戯曲や俳句も手がけた。本名、鏡太郎(きょうたろう)。金沢市下新町生まれ。
尾崎紅葉に師事した。『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られる。また近代における幻想文学の先駆者としても評価される。ほかの主要作品に『照葉狂言』『婦系図』『歌行燈』などがある。
主な作品( 代表作)
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